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国産自動車第1号「山羽式創案国産蒸気自動車」

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明治36年4月、大阪市に於いて第5会内國勧業博覧会が開かれた。

その博覧会の参考館に、横浜のヴルーエル兄弟商会がトレード2人乗り蒸気式自動車を、 同じくアンドリュース・ジョージ商会がハンバーを出品したが『自動車というものが出品 されている』というので大変な人気だった。

しかもアンドリュースは、ボン(H.Bon) という技師を派遣して、参考館の前の広場でドライブして見せたため、観衆は黒山を築く という物凄さを呈した。

この観衆の中に、岡山から遥々上阪していた、楠健太郎・森房造・萩原某・伊達某の4氏 があった。4氏は岡山の人とはいえ、詳しく言えば岡山市外三蟠村の居住。珍奇な乗り物であるというので、呆然として自動車を眺めている筈のものが、他の観衆がただ訳も無く 騒いでいる間にも、自動車の各部を仔細に眺め入っていたのだった。


4氏は宿に帰ると、まず博覧会で見た自動車が話題の中心となった。そして誰から言い出 したともなく『いっそのこと、彼の自動車を1台買って帰ろうではないか』という事にな った。無論値段がどれ程するのか解らなかったが、4人の力の及ばぬものではあるまい、 自動車というものを土産に持って帰り、広島より一足先に、これで一儲けしようではないかという事に話が決まった。

翌日、早速4氏は博覧会に出かけて『自動車を一台買いたいが』とアンドリュース商会の 社員に交渉を持ちかけた。店員は至極落着いたもので、1台8千円なら売ろうと言った。

これを聞いた4氏は、2度と問い返す勇気もない程驚いた。自動車は便利なものに違いないが、僅か1台が8千円とは、4氏が考えたのとはまるで桁違いの値段だった。

その日は 諦めて宿に帰ったが、何とかして自動車を手に入れたいと念願する心は、如何にしても諦 め切れなかった。そこで、またしても相談をした挙句、たかだか馬車を改良したような車のことだから、気の利いた鉄工所で作れぬことはあるまいと、今度は自動車を作る鉄工所 を探すことになった。

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方々訪ねているうち、大阪市西区達売堀に岡田商会という機械店があって、この店は鉄工 所も経営し、しかも自動車の販売もしているということを聞いたので、早速自動車製作を交渉した。
店主の岡田某は簡単に申込みを引き受けたが、いつまで待っても自動車が出来ないのみか、自動車を作ろうという様子さえ無かった。

しかも、その時にはアメリカ製の フォード幌自動車を1台輸入していて、6千円ならこの自動車を売ろうと言い出した。
これに愛想をつかした4氏は、大阪で自動車を作ることを止め、岡山市天瀬可眞町で電気の修理工場を経営していた山羽虎夫氏に交渉した。


日頃、変り者として仕事の熱心さに周囲の者が呆れていた程の人、山羽虎夫氏は、自動車 が何であるかを知らずして、これも簡単に引き受けた。山羽氏は電気器具の修理を行っていた経験から『外国で作るものが日本でも作れない筈はない。如何に難物であっても自分 の熱意と研究でやってみせる』という考えであった。

そして何よりも自動車そのものを見なくては恰好がつかぬと、仕事を放り出してわざわざ 神戸に出て、元町のニッケル商会に勤めているイタリア人マーシンの私用蒸気自動車を見たが、一見してこの精巧な自動車をスケッチすることは不可能だと知った。
しかし、ともかく自動車の各部構造を検分して岡山へ帰った。

『あの自動車を作ることは、残念ながら自分の手にはおよびもつかぬことである、しかし方法を変えれば自分の手で自動車と同じようなものが作れないことはない』。
そして帰郷するや、我が家の一室に閉じ篭って、懸命に独特な自動車の設計に着手した。

出来上がった設計図によると、蒸気式2気筒のエンジンで、気管はオイルバーナー(揮発油)を焚き、バーナーはシリンダーの蒸気によって調節するというものであった。

半年以上も費やして、ともかく山羽式2気筒蒸気自動車は完成した。エンジンの試運転を 行ったところ、予期した通りの快適な作動を起すではないか。

依頼者はもとよりのこと、 山羽氏の歓喜はたとえようもないほどのものであった。さもあろう、これぞ日本国産自動 車の第1号なのであるからだ。明治37年早春のことであった。


1台の自動車はかくて出来上がったが、その時には既に岡山県令による乗合自動車取締規 則が公布されていて、それによると輪帯はゴム製でなければならないとのことであった。

自動車を容易に作り上げた山羽氏も、ゴムタイヤにはほとほと弱り抜いた。再び神戸に出 たが、ここにはゴムタイヤを作る工場はなく、漸く大阪市靱南通にある大石ゴム工場が型 代百数十円で犠牲的に引き受けることになった。
タイヤは無論ソリッドで、ゴムを丸くし てリムに収めたにすぎない物であった。


これで全ては完成した。いよいよ輝く試験運行というので岡山警察署に届けたところ、当 局でも山羽氏の努力に敬意を評し、試運転の荒神町コース、天瀬の出口と西大寺町の街角 へは、巡査5人を警戒に派遣するという有様。

試験運行は見事に成功し、岡山市中この噂 で大変な騒ぎであった。試験運行に自信を得た山羽氏は、今度は正式に岡山市-三蟠村間 長距離運行試験を県当局に願い出た。既に県当局でも心待ちしていたところであるから、 保安課主任技手までが立会うことになった。


時は、明治37年5月、南満の野に日露の戦いいよいよ酣ならんとする初夏、輝く国産自 動車第1号車は黒山の如き群集の歓声に送られて天瀬可眞町の工場をスタートした。


しかし、遺憾なことにはエンジンが快適だったのに対し、タイヤが伸びてスピードを出す ことが出来ず、山羽氏は無念の涙を呑まなくてはならなかった。

しかも既に依頼者は相当の資金を投じ、山羽氏自身も研究のため私財を傾けつくしていたため、これ以上研究する 余力なく、また他に画期的発明を援けようとする理解者も現れず、文字通り心血を注いだ 山羽氏創案国産蒸気自動車は、一時製作も研究も放棄するの止むなきに至った。

とは言え、山羽氏の功績は本邦自動車工業史の第一頁を華々しく飾るに足るものであるこ とは勿論である。一般には、東京の内山駒之助氏作のタクリー号を国産自動車第1号車と称しているが、事実はタクリー号が第2陣となっている。



参考文献:オートモビル社「日本自動車発達史/尾崎正久著(昭和12年10月発行)」
写 真:
(社)自動車工業会自動車図書館  ※写真を焼いてもらいました



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